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「風景リーディング」カテゴリの一覧

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    <みんなある>
    誰もが「何か」の感覚をもっているということです。
    それは音で聴こえたり、形で見えたり、何かの色であったりと様々ではあるとは思いますが、完全に、絶対に全ての人が何かの、「それ」を持っていると私は確信しています。
    「それ」とは目では見えていない「何かの感覚」です。
    何を見ているかは、千差万別ですが、確実になにかの「感覚」を見ている、聞いている、感じていると思います。
    つまりその「感覚」は人それぞれですが、持っている、感じていることだけは間違いないのです。

    <大きな齟齬>
    子供の頃はそこに一つだけ大きな間違いがありました。
    誰もがその「感覚」を持っていると思っていました。
    そこに大きな誤りがありました。
    私は、ですから特に家族(両親や兄弟)に対しては複雑な思いがあります。
    エクスキューズに似た感情です。
    つまり、自分が感じて見えているものが、家族全員が共有していると思っていたのです。
    言い換えれば、みなが、その「なにか」について、常に話をしていると思っていました。
    ですから、私が一生懸命、話をすればするほど、必死になって訴えかければかけるほど、彼らとの齟齬が起きると言う事です。
    彼らにとっては意味のわからないことを捲し立てられていたということです。

    <箱根の森>
    私にとっての「それ」は、一言で表現すると「立体構造物」です。
    子供の頃から、人と話をしたり、そこにはいない誰かの話をしていたりすると、その人の「立体構造物」が見えるのです。
    その「立体構造物」とはなにかと聞かれても、それはある種の「立体構造物です」と説明することしかできないのです。
    たとえば、箱根の森美術館にあるコンテンポラリーアートの様なものです。
    少々言い換えを試みると、「風景」の様なものです。
    なんとなく宇宙のような、現代美術の彫刻のような、建築物のようなものが風景として表れてくるのです。

    <先生は竹製のビル>
    例えば、学校の先生の話や大人の話を聞いているときに、ふっと感じるのです。
    うっらと、ゆっくり現れてきます。
    真面目に授業に出て、話を聞き、大人の言う事を聞いてはいる途中に、ふっとその「風景」が表れて眺めてしまっているのです。
    授業中で、誰よりも真剣に先生の話を聞いているのに、授業の内容より、その人(先生)の「風景」を眺めていることになるのです。

    <決定的なもの>
    その風景を眺めているので、どんな時も決定的に一番大切なところを聞き逃すことが起きてしまいます。
    つまり、その「風景」を眺めているときは、音としては、例えば先生の話を聞いているのですが、内容はかなりそっちのけで、いわゆる「ちゃんと」は聞いてはいないのです。
    授業の後は、つまり、「風景を眺めた」後は、顔面神経痛にも似た感覚とでも表現したらいいのでしょうか、顔面から脳にかけてとてつもない疲労に襲われます(このとんでもない疲労感は睡眠を確保しさえすれば解決します)。

    <何が「大切」ですか?>
    その「風景」において、大切なことはなんですか? と聞かれることばあれば、それはそれぞれが抱えるテーマのような、課題のようなものです。
    課題といっても、○○しなければいけないということでもないのですが、私にとってみればその「風景=立体構造物」にはそれぞれテーマのような、課題のようなものみてとれます。
    その人にとって大切な事=テーマ=課題がその「風景」には含まれています。
    どこに気をつけたらいいのか? どうしたらいいのか? といったことです。
    しかし、それでも私からなにか、最初から○○せよなどのアドバイスがある訳ではなく、ご本人がどうしたいのかが何よりも大切です。

    <誰もがみえているとおもっていた>
    ある種の自己防衛の感覚にとても近いものがあると思っています。
    自分自身を守らなければならない時=大切な瞬間こそ、その「風景」をみるような習性があるようです。
    ですから、少年期などは、兄弟喧嘩や親とのトラブルの時はその「風景」を見ながらの話をしてしまうことになってしまいました。
    この「風景」を媒介にしてのコミュニケーションを取ってしまうことになるのです。
    ですから、おそらくほとんどの場合、相手はなにを言っているのか、意味の分からぬ理屈を並べているように聴こえたかもしれません。

    <人生の風景+テーマ=その人自身>
    どんな時も、いつでもだれもが、自分が見ている(感じている)ビジョンを共有しているとおもっていた少年時代もすぎ、一人暮らしを始め、異国の地で暮らすようになってから、自我の形成もともない、自分というものは、なにか? 自分はどうしたいのか? 自分はなにが好きなのか? などなどの悩み多き時期に入ったときに、またこの「感覚」と向かい合うことになりました。
    大学で映画学を専攻し、毎日映画をみる日々が続きました。映画の勉強といっても多くの人は何を学ぶものであるかのイメージも湧かないのが通常だと思います。
    私自身も映画学なる学問がなにをするのかは全く想像もできませんでした。
    Film Study(フィルム・スタディ)=映画(専攻)学では、映画の歴史、カメラやライトの操作法、コンテンツとしての構築理論、コンテンツの制作法、シナリオの作成法などを学びます。
    毎日授業で映画を見て、その後、講義となる訳です。
    映画鑑賞と授業時間を合わせると合計で約4時間になります。
    4時間を超える授業では、肉体的にも限界を超え、脳や意識は遠のき、思考もほぼ停止しし、何となくボーっとしてくるのです。
    そして、一体自分なんの映画を見ているのやら、なんの授業で、何をテーマにしているのかもわからない状態になってしまいます。
    そんな中で、困った事に、映画を見ているのに、なにか別の「風景」が見えてくるのです。
    映画を教材として鑑賞し、考えなければいけないのに、全く違うものが見えてきてしまうということに気がつきました。
    視覚的には、学校校舎の映画室で、クラスメイトと映画を見ているのに、脳の中では別の「風景」がみえているのです。
    全く今後の人生や、授業、テストや成績とは無縁であろうその「風景」は、ある一定の規則で表れるようになりました。
    それはいくつもの作品に共通の「風景」でした。
    それぞれの映画作品に、それぞれのイメージ「風景」があるのでしたらむしろわかりやすいのですが、いくつかの映画に同じ「立体構造物の風景」が見えるのです。

    <意識を停止>
    映画鑑賞と講義とで、4時間以上になり 意識は遠のき、思考も停止し、一体自分なんの映画を見ているのやら、なんの授業で、何をテーマにしているのかもわからない状態になっています。
    しかし、その「立体構造物の風景」は、その映画監督がつくった作品、つまり、作者が同じである場合に共通の「立体構造物の風景」が見えるのです。
    同じ作者(監督)が制作した映画作品には共通の「立体構造物の風景」がイメージとして私の脳に映し出されるのです。

    アルフレッド・ヒッチコック監督は多作の映画作家としても知られていますが、どうしても、彼の作品は、真っ暗闇の中にカッターで裏側から傷つけられた滝の様なものが観えます。どの作品を見てもそのような「風景」イメージが観えます。

    ヒッチコック Hitchcock

    ヒッチコック Hitchcock

    いくつもの銀河が浮かんでいる宇宙のような場に、
    大きな切込みが入っている

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